野球の力 ぼくらはなぜ野球をするか
43年前の今日(10月14日)、長嶋茂雄が引退した。僕は高校3年生だった。野球に疲れ、大学で続ける気はもう一切なかった。
学校から急いで帰り、テレビにかじりついた僕の目に飛び込んできたのは、ハンカチを顔に押しつけ、苦しそうに顔をゆがめてグラウンドを一周する長嶋だった。長嶋が涙する姿を初めて見た。やがて、暗く沈んだダイヤモンドの真ん中でひとりスポットライトを浴び、語り始めた。そして、「我が巨人軍は永久に不滅です!」と叫んだ。
消えて行く背番号3を見送りながら、身体の芯から震えが来た。
(野球をやめていいのか !? )
大嫌いな鬼監督によって疲れ果て、野球そのものが嫌いになっていた。
(僕の中にはまだ燃えるものが残っているんじゃないのか?)
体力の限界を悟って引退する長嶋に申し訳ない、自分にはまだやれる18歳の肉体がある。
長嶋に教えられた感動と昂奮に恩返しするために、大学で野球を続けようと決意した。
甲子園とかそんなんじゃない。
(“野球”が好きなんだ。もう一度、僕の大好きな野球がやりたい!)
その日から、猛勉強を始めた。大学で野球をやるために。
結局、大学ではすぐ野球をやめてしまった僕が、なぜいま中学野球の監督をしているのか。
僕の好きな野球が、日本のどこにもなくなっている。“無農薬”、“自然栽培”のアマチュア野球はほとんどない。高校野球を権化に、中学野球も学童野球も大学野球や社会人でさえ、監督が君臨支配し、戦前の封建主義をいまだに残す野球界が息苦しい。野球を志す少年や親たちは
“甲子園出場”という憧れに幻惑され、普段は持っているはずの冷静な判断力や自尊心を、“野球で負けたくない”という単純なマインドコントロールに操られてしまう。
野球はもっと自由であるべきだ。
音楽はいいな。
さくら(独唱)は、森山直太朗が大学時代、悩んだ末にサッカー部をやめ、音楽の道を歩む決心をした、裏切る形になったサッカーの仲間への思い、自らの決意を込めた歌だという。
勝ち負けを超越している。一人ひとりが人生という荒波に立ち向かい、自然災害や様々な理不尽に行く手を阻まれ、それでも歩みを続ける。歌は自分と向き合い、戦い続けるすべての挑戦者に勇気とエールを注ぐ。一緒に歌い、聴く人すべてが感動し、揺さぶられている。
今の野球にこれだけの力はあるだろうか?
プロ野球選手の志も、誰かよりすごいという次元でなく、「見る者を震わせ、感動させ、涙させ、そして笑顔にする者であること」であってほしい。ただ、打った、勝った、すごい、だけでは足りない。
野球をもう一度、感動の原点に戻したい。もっと豊かに発展させたい。野球にも一個の球をめぐって、すべての人の心にポジティブは衝撃波を巻き起こす“アート”の力がある。
東京武蔵野シニアが目指すのは、感動の発信源。いろいろな立場で野球を愛し、その愛を発信する人材たちを育む舞台。そして、巣立った野球少年たちが大人になって、いつでも戻って来られる故郷であり、人生の“虎の穴”であり続けたい。
野球には、人々の心をピュアにし、奮い立たせる活力がある。