みにくいアヒルの子
二人の子どもを持って、いまの日本がいかに素直に生きづらいか、痛いほど感じるようになった。人と同じに生きる……、世間が正しいとする常識の枠で生きないと、面倒くさい摩擦がたくさん起こる。学校では先生に疎まれ、行動を規制される。集団生活に馴染めない子ども(人間)は、失格者の烙印さえ押されかねない。それが怖くて、あるいは面倒くさくて、それなりに知性のある者はたいてい世間と折り合いをつけて暮らす。折り合いをつける無駄な努力がいかに純粋な感性を鈍らせ、濁らせるかは言うまでも無い。それに耐えられる人はいい。耐えられない人間は、苦しみを抱え、手足の自由を奪われた気持ちに襲われる。
みにくいアヒルの子。才能があればあるほど、才能をぼんやりとでも感じれば感じるほど、折り合いをつける生き方を受け入れるのは難しい。こうして言葉にすれば、すごく明快のようだけど、多くの子どもは、大人さえも、そんなもどかしさの構造を自分では理解できなくて、ただ自己嫌悪に苦しみ、素直だからこそ、自分をダメな人間だと思い込みがちだ。
僕は、そんな理不尽が我慢できない。才能ある子どもたち、素直な子どもたちが、秘めた才能を潰され、否定され、ダメ人間だと上から目線で抑えつけられる世の中のどこが自由平等だろう。
僕は何としても、みにくいアヒルの子たちを励まし、一人ひとりの素晴らしい才能の存在をそれぞれに伝えたい。どんな才能か、どの分野で伸びるか、それはもっと時間が経たなければ、自覚できない場合がほとんどだ。いずれ、ささやかでも劇的な出会いが訪れて、ある日突然、運命の扉が開くまで待たなければいけない。その日は突然やって来る。そして、みにくいアヒルの子は自分が何者かに気がつくだろう。その日まで、エールを送り続けるのが親の、監督の務めであって、自分のやりやすい支配のため、アヒルだと決めつけ、アヒルらしく生きろと強要するのが教育であっていいはずがない。
みんなの笑顔が輝いて、心がひとつになっているコンサート。
僕はこういう野球がやりたい、こういうチームを創りたい。