甲子園の幻
「甲子園に出たい!」
それはもう、理屈抜きの憧れです。
わが子がもし「高校生になったら、野球部に入って甲子園に出たい」
夢を描く野球少年に育ったら、そして親としてその可能性があると感じたら、
できるだけ応援したい、夢を叶えてあげたい、そう願うのは当然でしょう。
その向こうにプロ野球がありますが、まずは「甲子園」。
プロ野球はさらに遠い夢。多くの野球少年やその親にとっては現実的に直視しにくい目標ですが、甲子園は少し身近です。
しかも、高校で野球をやるのは、それほど罪はないというか、文武両道、人生を野球に賭けるわけではありませんから、勉強も同時にする、高校野球が終わってから猛勉強する、といった方法でいろんな職業に就いている球児たちがいる。だから、どこか安心感のようなものもあって、「高校で野球に打ち込むこと」を味方しているかもしれません。
甲子園の熱狂、地方大会の昂奮は理屈抜きに多くの人の心を惹きつけます。
でも、その幻、甲子園の呪縛から日本人は逃れるべき時期に来ています。
いえ、もっとずっと以前から、そうすべきだったけれど、できないまま野球界はその課題を放置し、直視せずにやってきました。
放置というより、意識的にその騒ぎに油を注いで、焚きつけて来ました。
なぜなら、甲子園だけは熱狂し続けている、野球人気の衰退がささやかれる中、甲子園だけはそんな不安を忘れさせてくれる、野球人気の砦だからかもしれません。
しかし、本当に野球を愛する者たちは、そして子どもたちの心と未来を大切に考える大人たちは気づかなければなりません。目を背けてはいけません。
実はその「熱狂する甲子園の光と影」こそが、野球人気の衰退を加速させている元凶ではないか、という事実。
それは野球界、高野連の問題ではなく、夢中で野球に打ち込む少年とその家族それぞれに深刻な影響を与える、それこそが大きな問題です。
高校野球の主役は当然、高校生です。
ところが、大人たちの「見るスポーツ」になり、高校はこれを学校のプロモーションや生徒獲得の手段に使い、メディアはビジネスの素材として重宝し、大人たちの都合優先で動いてしまっている。そのことの計り知れない弊害を、私たちはそろそろ真剣に机上に乗せ、改革しなければなりません。