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「空しさ」に悩んだ 野球少年


小学生、中学生のころ、僕のいちばんの悩みは「空しさ」だった。

 時々、言葉に表しようのない脱力感、無力感に襲われ、切なくてたまらなくなる。昨日も今日も明日も見えなくて、生きている時間が止まるというか混乱して、ただ普通に呼吸し、淡々と未来に向かっていく自分が思い描けない。  胸の奥に広がるその気持ちが「空しい」という言葉で表現されるものらしいと自覚できるまで数年かかった。言葉を知って、少し気分が楽になったが、空しい気持ちに襲われたときのどうしようもなさを、すぐに自分では解消できなかった。

 時々自分の中に沸き起こるその状態を僕は自分だけが持っている「病気に違いない」と感じていた。なぜなら、そんなことを口にする友だちは回りにひとりもいなかったからだ。親も姉も、そんな状態を持っているとは普段の会話で想像できなかった。

 空しさに襲われるのは些細な出来事に直面したときだ。  夏休み最後の日。今日で休みが終わると思うと、いたたまれなかった。学校が嫌いだったのではない。僕にとって夏休みは、高校教師として働いていた母親と、ずっと一緒に過ごせる貴重な期間だった。また明日から慌ただしい日々が始まると思うと、まだ母親の愛情に飢えていた僕には失望感が広がったのだろう。  お祭りの夜。屋台で遊び、綿あめやお面など買い、友だちと家路に向かうとき、ふと振り返って神社の境内を見やる。 (灯りに包まれたこの賑やかな風景が明日の朝にはもう消えてなくなっている)  そう考えると、いたたまれず、胸をかきむしっても収まらない空しさで気持ちが沈んだ。一緒にいる友だちはみな、祭りで手に入れた玩具など持って楽しそうに笑うばかりだった。  こんな気持ちで苦しんでいるのは、自分だけなのだろう、僕はこの悩みをずっと誰にも打ち明けることができなかった。

 大人になって、文章を書く仕事を始めて数年経ったころ、ある本を猛烈なスピードで書いているとき、ふと、 (空しさこそが、僕をかきたてているエネルギーなのではないか?)  空しさが僕にとって貴重な原動力だ、そう気がついた。急に、空しさが自分にとってなくてはならない大切な財産だと感じるようになった。

 そんなことを野球チームの監督コラムに書いているのは、きっと中学生たちは、誰にも言えない悩みをそれぞれ抱えている。野球という肉体が勝負と思われがちな世界ではとくにそういった内面の機微や繊細さは蹴散らされる場合が多い。だけど、野球が好きな少年だって繊細な感情を携えている。

 僕は、空しさに悩んだ少年時代を持つ元野球少年として、子どもたちのそういう気持ちに寄り添って、応援したいと考えている。悩みに直接立ち入ることは自分からしないけれど、監督も同じ仲間だったという無言の雰囲気は子どもたちに伝わると思うし、それが目に見えない信頼関係の底流になると感じて、子どもたちと過ごしている。野球の実績など大したことのない僕がリトルシニアの監督を務めている意義はそこにあると感じている。


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